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ここでは、島村洋二郎の生涯をご紹介いたします。

 洋二郎は、島村忠次郎・小千代夫妻の二男として、1916年(T5)4月21日、牛込区中町(現在の宮城道雄記念館)に生を受けました。

8人兄弟姉妹の賑やかな家庭でした。

 

母方の祖父母は、仁尾惟茂(貴族院勅選議員)・繁、父方の祖父母は、島村幸之助(出雲大社の国造・北島家に近習席として仕えた)・ハナです。

1923~1929年小学校時代

 

 

地元の愛日小学校(現在新宿区)に通いました。

 

三角ベースをしたり、坂道を自転車レースで走り回る活発な少年でした。

 

高学年になると、父・忠次郎の意向で、論語を学びに通い始めました。

 

1929~1934年中学校時代

 

 

東京府立第四中学校(現在の都立戸山高校)に通いました。

 

水泳部で活躍。校則は相当厳しい学校だったようです。

 

在学中友人たちと、同人誌『路』を作成しました。

 

 

 

 

1935年 高等学校に入学

1935年4月 旧制浦和高等学校に入学しました。

 

沢山の友人(岡本謙次郎、石橋英二、小木曽龍、他)に恵まれます。

 

しかし、秋には、画家を志して退学してしまいました。


1935年里見勝蔵に師事する

 

1935年頃 当時、井荻にアトリエを構えていた里見勝蔵の元へ通い始めました。

 

日本の古い文化に学ぶことを教示され、京都、奈良へ赴きました。

 

奈良の写真館「飛鳥園」で仏像写真を入手、帰宅後自室で写真展を開きました。

 

 

1936年 第10回新構造社展出品

1936年頃《少女》油彩

1938年第15回白日会展出品

1937年頃《少女B》油彩


1939年同人誌『崖』の仲間と交流する

後に雑誌『同時代』の中心メンバーとなる小島信夫、浅川淳、岡本謙次郎、宇佐見英治、加藤周一、矢内原伊作らによって、同人雑誌『崖』は創刊されました。

 

洋二郎は、岡本謙次郎の紹介で同人と交流し、表紙やカットを描きました

1941年 結婚と初個展

1941年国際文化振興会に勤務。長野県飯田市出身の林幸と結婚。

 

11月14日~16日、飯田の文星堂ホールにて、初の個展を開きました。。

 

作品展に来た青年をモデルに《北澤武像》を描きました。

《北澤武像》1941~42 油彩

1943年、岐阜県関工業学校(現・関市立関商工高等学校)に赴任

1943年関工業高校で美術を教えました。

期間は短かったのですが、生徒の心に残る授業だったようです。

 

1944年従軍画家として大陸に渡りました。


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1945年 肺結核のため帰国、妻の故郷飯田へ

 

4月 肺結核のため帰国。

 

7月 下伊那郡市田村(現・高森町)に疎開。7月9日の岐阜市大空襲で貨物に積んだ家財一式を焼失しました。

 

敗戦後、飯田市知久町3丁目の伊藤宅2階に移り住みました。

 

群青画廊を開く。疎開文化人のたまり場となります。

 

10月 顧問に日夏耿之介、岸田國士を迎え、久保田正文、井上是信と共に「自由文化振興会」を設立。

 

《村瀬賢洋像》1946頃 鉛筆

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1947年 飯田の大火で全て焼失

 

4月 飯田の大火により借家および作品を焼失しました。同じ日、出雲に疎開していた母小千代死去。

 

4月30日 神奈川県逗子に転居。横須賀市立第3高等女学校(現・神奈川県立逗子高等学校)に奉職。

 

9月 林幸と離婚。

 

 

《君子像》(セーラー服)1947頃 油彩

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1948年 再婚 荻窪へ

 

1948年1月30日 退職。

 

2月20日 岡本謙次郎著『運慶論』発行される。洋二郎は同書の装丁を担当しました。

 

田澤君子と結婚する。西荻窪へ転居。

 

1949年1月10日 スティーヴンスン著、上田義雄訳『童謡の花園』(新月社)発行。

同書の挿絵と装丁を担当しました。

 

1950年2月 第2回日本アンデパンダン展に《幻想的風景》、《自画像》を出品。

 

荻窪駅南口に、小さな喫茶店付きの花屋を始めました。

 

過労のため、肺結核が悪化。青砥の慈恵医大病院に入院しました。


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1951年2月退院、妻君子の出奔

2月 青砥の慈恵医大病院を退院。

退院前日、妻の君子が出奔しました。

 

4月20日 妻君子と離婚する。

 

6月 家財道具、画材を売り払い、京都、大阪、神戸、芦屋、高松、徳島など知人・親戚を頼って放浪ののち帰京。

 

8月 大田区馬込東、高木方に下宿。「現代絵画研究所」の看板を立てました。平林義雄と出会い、絵を教えました。

 

11月 福田恆存「幽霊やしき」(「少年少女」4巻12号掲載)の挿絵を担当しました。

『少年少女』12月号掲載「幽霊やしき」福田恆存 絵・島村洋二郎

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1952年アンデパンダン展に出品

2月 第4回日本アンデパンダン展に「自画像」「少女」を出品。

 

7月 岐阜より前夫人と子ども達を呼び寄せました。

 

10月 自由美術落選。下宿先で3度喀血し、民生委員の世話で品川区の石医院に入院。入院中「黒い手帖」に手記を綴りました。

 

《少女》1951年頃 油彩 読売アンデパンダン展

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1953年7月エルテルで個展

4月 同室患者の待遇問題で医師と口論になり、退院。以後、大井の簡易宿泊所にて起居。クレパスで同宿人などを描きました。

 

5月 土浦の新聞社社長の厚意で茨城県筑波山山水荘に滞在、油彩画を制作しました。

 

6月 エルテルでの個展準備のため大月市猿橋の大黒屋に逗留、制作に没頭しました。

 

6月 二男鉄、米国人ウエーバー夫妻の養子となります。

 

7月 喫茶室エルテル(新宿角筈)でクレパス画個展を開く。個展開催中は下落合の山楽ホテル6号室に宿泊。

 

7月20日 個展最終日にエルテルで喀血

 

7月29日 午後2時5分印刷局病院にて永眠しました。享年37歳。

 

8月30日 三十日祭にあたり青山墓地に埋葬。

ウエーバー夫妻とテリー(鉄)、妹アンナ