洋二郎作品のこと「私の洋二郎」


ここでは、洋二郎の作品をご覧になった方々のエッセイを、ご紹介いたします。


画廊めぐりノート5284              紋谷幹男

2024.8.29

2023.07.22

 

GALLERY枝香庵Flat(中央区銀座3-3)では、
島村洋二郎展。

 

 

 

会場風景。
展覧会タイトルはー洋二郎没後七十年展ー。

仕事や義務、責任からではなく、
止むに止まれぬ衝動によって、
描かざるを得ぬから描かれる絵画は、
そもそも他人への媚びや自己主張が目的ではないので、
いわゆる、他人にとってのわかりやすい美しさはありません。

自身にとって、
どうしようもないかけがえのなさがあるので、
それを絵画にすることで確かめようとしているようです。

例えば、同じく37歳で亡くなったファン・ゴッホも、
オランダ時代、パリ時代、アルル時代と、
作風は大きく変わってゆきますが、
それは、同一人物の中での美しさの在り方の、
変化、深化であって、
それを捉えるための切実感は共通のようです。

島村洋二郎の人物は、
美しく整った造形ではありませんが、
目から、瞳から、その深い内実が覗けるようです。
色々な事情の下での厄介でしんどい人生なのかもしれませんが、
生きている、その一点において、
美しさが宿るはずです。

絵画は、
得ることのできた自分の人生と、
画家である自身との関わり方。
そんな印象でした。

 



自画像は心のヌードか               中村啓治

2024.8.27

                    

 

小中高校を通じて学科で一番得意で好きだったのは音楽で、とびきり苦手でつらかったのは図工、美術だった。

そのくせ美術作品を見るのは好きで今も平均的な市民よりは美術館へ行く頻度が少し高い。

 

なぜか?自分では描けないがゆえに絵が描ける人を心底から尊敬する気持ちになり素直に絵を受け入れて幸せになれるのだ。

もう一つの秘密は気に入った絵を見ていると絵の向こうからその絵のテーマ音楽が聞こえてくることがあるからなのだ。 

 

島村洋二郎という画家を知ったのは20118月、明大前にあった「キッドアイラックホール」で、誰に紹介されたのか忘れてしまったが、「島村洋二郎という人の遺作展がある」と聞いて、それまでに何度か行ったことのあるスペースだったから行ってみたら、そこにいたのが島村直子さん。勿論初対面だった。

 

40点ほどの作品が並んでいたのだが、その時強烈に感じたのは個性的な肖像画が多いこと。

そしてもうひとつは「自画像って怖いなあ」だった。

他人の肖像画は作品として素直に見ることができるのに自画像は画家さん本人を裸にして胸の中まで見せてしまうんだなあと。

何を考えているのか、どう見られたいのか、が隠しようもなく暴露されているのが自画像なのではないかと初めて気がついたのだった。

 

この時が島村洋二郎との最初の出会いで、以後こんにちまで直子さんからの案内を受け取って10回ほど遺作展を見てきた。     (つづく)



青い眼に魅せられて                佐野加代子

2024.8.5

 島村洋二郎は何といっても“青い眼”であろう。

 

衝撃の出会いは2015年の東新宿のビストロでのことだった。知人の映画監督が洋二郎の映画を完成させ、その完成披露の会に参加した時のことであった。

 

この時、私はまだ画廊を始める準備中で、美術界とは無縁だった。何の知識もない私であったが、洋二郎の自画像と対面した時の感動は忘れもしない。

その“青い眼差し”は、誰に向けているのか、観る者に憎悪だけでなく、その奥底に潜む他者への愛と自己への憐みを同時に訴えかけている。

この戦慄はなんであろうか。生への執着と去って行った妻への恋慕であろうか。

 

戦前の彼の絵はこれに反して穏やかである。

その頃の里見勝蔵の師事を思わせる画風も私は好きである。

 

しかし、その平穏な生活から運命ともいう出会いをしてしまう。

その苦悩の日々をクレパスで描くしかなかったにしろ、指の腹で描くその技法こそが洋二郎の本来の作風を表しているのかもしれない。

それは今につながる宿命であり、快挙だと思いたい。

 

当方での展示会は二回ある。

一度目は私が画廊を始めてから、初めて企画した会であった。

二度目は「ファミリーヒストリー」(NHK)で取り上げられたアメリカに養子に行った洋二郎の息子、鉄が見つかった記念の展示会として。

どちらも感動的な展示会となった。

 

また生誕100年の際にも実行委員として参加させていただいた。そのご縁で島村直子さんともお付き合いさせていただいている.

彼女の叔父洋二郎への執心は、DNAがなせる所以であろうか。

彼女の情熱に絆され、洋二郎の青い眼に魅せられて応援させていただいる。

 

  その後、このご縁が洲之内徹氏の現代画廊と私の恩人たちとのつながりに広がっていったのであるが、これも不思議な因縁である。

 

そして、今も「黒いベールの女」は幣廊の常設展を飾っている。

 アートギャラリー884 画廊主

 



ベロと“少年”                    藤岡貴志

2024.7.30

 

 

あくまで素人の妄想ですが、ご笑覧ください。

 

はじめて島村洋二郎の原画に出会ったのは、20172月、茶話会 青い光の画家「島村洋二郎」の世界(ハックルベリーブックス(柏)で開催)でのことでした。クレパスで描かれた「猫と少年」です。正対したときは衝撃でした。

 

「おぉ、これは...妖怪人間ベロではないか?!」

 

本当に失礼な感想でごめんなさい。

 

「妖怪人間ベム」は、1968年に放映されたTVアニメです。私は9歳でした。

「妖怪」でもない、「人間」でもない「妖怪人間」が、「ベム」「ベラ」「ベロ」。人間から恐れられ、嫌われ、刑事から追われるなか、やがて、人間とのふれあいの中で「人間になりたい!」という思いが芽生えます。いつか人間になれる日を夢見る彼らは、「悪」と戦い続けて、いつかは人間になれると信じるようになるのです。

ちょっと怖い、でも切ない物語でした。

 

その記憶の中の「ベロ」(少年)の顔が、「猫と少年」の少年と重なったのです。

 

「猫と少年」の強烈な「眼の玉」。他の洋二郎の作品「自画像」をみたときも、そのとび出たような「眼の玉」が強烈な光を発散しているのです。

洋二郎の手帳にある記述、「無限に哀しく澄み切ってゆく、冷たく燃え広がってゆく青い光」。私の悪い癖は、後から無理に理由付けすることです。

 

しかし、アニメの「ベロ」を見返してみると、描写はアニメらしいシンプルさはあるものの、これだけで洋二郎を連想したのだろうか、とも思いました。洋二郎の「眼の玉」と比べるべくもない、ただの大きな眼にすぎません。

 

そう、他にもあったのです。髪の色が「青」だったのです。洋二郎の少年は髪の色が青というわけではありませんが、同じ「青」というだけで、ごっちゃにしたのです。それでも矛盾があります。

そもそも、私が見たアニメの「ベロ」は1968年だったので、モノクロでしか見ていないはずです。家にカラーテレビはありませんでしたから。後で再放送かなにかを見て覚えていたのでしょう。いやはや。

 

ちなみに、我が家にカラーテレビが来たのは1970年で、初めてカラー放送で見たドラマが「樅ノ木は残った」でした。主人公、原田甲斐を演じる平幹二朗の月代が妙に「青かった」ことを覚えています。(余談すぎてごめんなさい)

 

それにしても、洋二郎の特徴的な色使い、プルッシャン・ブリューには、いつも魅了されます。

深くて、神秘的で、ときに哀切さを放射する「青」。

最晩年の作品で際立つ「青」、「蒼い瞳」の前では、なぜかいつも身動きができなくなります。

 

葛飾北斎の「北斎ブルー」も、輸入された人工顔料が使われており、それをプルッシャン・ブリューと呼ぶのですね。

先日、NHKドラマ「広重ぶるう」で知りました。そして、通称、こう呼ばれていたそうです。

 

ベロ藍」

 

ほら、つながったでしょ!?

 

 



7月29日スイミツの日                武田 桂

2024.7.28

            

                   命日花なら

野の花

 

陽の当たるものより

 

道端に生きるものが

 

手向けるに相応しい

 

吹く風は変わらないが

 

色彩をくれた者達

 

一色、一色、どこに

 

七月の影法師

 

御影に頭部を

垂れよう

 

            

photo  by  Midori



洋二郎さんのまなざし               副島まどか

2024.7.1

自画像の中の洋二郎さんと目を合わせていると、聞こえてくる音楽があります。ベートーベンのピアノソナタ8番悲愴の第2楽章、表題にも関わらず、私にとって弾いていると、悲しい曲というよりも、不思議と最後には、人生を生きる力すら湧いてくるような気持ちになる曲です。

 

 2022年、上野の素敵な画廊で開かれた展覧会に訪れた折、洋二郎さんの自画像をちょうど秋の午後の日差しが包んでいました。

いつに増して絵が生き生きと見え、「その後、どう?」、再会した洋二郎さんの目が、私にそう問うているような気がしました。

 

「はい、夢がかなったわけではないけれど、なんとかやっています」「そう」、洋二郎さんのまなざしは、どんな人も受け入れてくれる、たとえ人生に敗れ去っても、うまくいかなくても、どんな時も包み込んでくれる気がするのです。

 

よく見ると、口もとには微かな笑みが見えるような気がします。

 

  この絵が描かれたのは1953年、宝石のようなアクアマリン色の瞳が印象的な「猫と少年」などの作品も生み出し、晩年と呼ぶにはあまりに若く、その年7月に37歳でこの世を去りました。

 

 自画像などのこの頃の絵を見ると、心の中を吹きすさんだ嵐が少しだけ凪いでくれたのではと想像し、またそうあってほしいと願い、少し救いを感じるのです。