ここでは、洋二郎の作品をご覧になった方々のエッセイを、ご紹介いたします。
「今日は、お元気でしたか?」
久しぶりに観ることのできた、その自画像は、私にそう語りかけてきた。穏やかで和らいだ口調だった。
37歳で夭折した島村洋二郎の自画像で、亡くなる年の作品である。
大きな眼、白目の部分はブルーで、漆黒の瞳は見開かれ、どこか哀しげである。角ばったアゴ、突き出た頬骨。黒い髪。画面いっぱいに描かれたその顔は、男性というよりも、中年の女性を思わせる。背景はグリーン一色に塗られている。
女性をモデルにした人物像。初見の私は、そんな風に感じていたのだが、自画像だと知り、不思議だった。
「ここに描かれた人々の顔はそのまま私の自画像のような気がします」と、画家は個展の挨拶文に記しているから、モデルとなったのはやはり女性で、労苦の多い人生から生まれた諦念の思いを、自分の心のように感じ取った画家・洋二郎が、モデルと自らの人生を重ね合わせて描いたのではないだろうか。
敗北の人生。無益な疲労。眼の前にいるこの人は、私だ。自画像なのだ。
※
離婚をしてまで愛し抜いた若く美しい女性に去られ、病身となった洋二郎は極貧の境涯に落ち、油絵の具も買えず、晩年の作品は、すべてクレパスで描いていた。
身を持ち崩した画家にいたわりの心をもって接していた豊倉正美氏は、「ものの怪」という文章の中で次のように書いている。
やがて、素直にいたわることが出来なくなった。何というおごり、何というたかぶり。己れの絵のために、他人の繊細な感情を弊履の如く踏みすてにして顧みない粗暴な面魂。
「朝から歩き廻ってまだ米粒を口にしない」と訴える人に、一体何でめしつぶを捧げなければならぬ義務があるのか、とこれは会ったあと苦く心に食い入るいつもの思いでした。
あの人の、すさまじい才能については、ただ呆れるばかりでとやかく申す必要もないと思います。
しかし、あの体で、あの様なおごった生き方をしていた人に、何かえたいの知れぬ不満と焦燥をひどく感じたことは確かです。
豊倉正美氏は、芸術に対する深い理解と愛情を持っていたのだろうが、一方では堅実な生き方をする人でもあったと思われる。
洋二郎のような無頼の芸術家に対する社会的反応の典型がここにある。
洋二郎には、追い詰められ捨て鉢になったところからくる甘えがあった、と私は思う。現実社会に生きる人々の多くは、豊倉氏が抱いた「不満と焦燥」をもつことだろう。
誰が洋二郎のすべてを受容することができるだろうか。
洋二郎は詩も書く美術家であったが、詩人でフランス文学者の宇佐見英治氏は、洋二郎の作品を認めながらも、こう書く。
死後、彼の画帳から出てきたクレパス画の中には眼窩がどす黒く落ちくぼみ、頬骨が高く、頤が張った自画像がある。それは生きながら死相がそのまま捉えられているような絵で数分と見るに耐えない。
(「或る画家―島村洋二郎のこと」)
洋二郎には、自画像と称したクレパス画が数点あって、宇佐見英治氏の指摘した作品は私に語りかけてきた自画像とは異なるものだと思われるが、いずれにしても明るい作品ではない。他の作品群も重く哀しいものが多い。
※
私が島村洋二郎の作品に初めて出会ったのは、京王線の明大前駅近くにあった「キッド・アイラック・アート・ホール」での『島村洋二郎〈青い光〉遺作展―飢餓と死と純潔と』で、48点の作品に囲まれたときであった。2011年の7月のことである。
主宰者の島村直子さんとは、知人を介して知り合ったのだと思うが、大の美術愛好家である私は、個展案内をいただいて、自宅からすぐ近くということもあり、期待を胸にして出かけていったのだった。鑑賞者は私一人であったように記憶している。
最初の印象は、何か気になる絵ではあるが、重苦しくて私の好きになる絵画ではないな、ということであった。
ただ、黙って通り過ぎて終わりにはできない場の空気のようなものも感じてはいた。
その中でも、《若き日の北澤武像》という油彩画だけは、私の心を強くとらえた。
学生服姿の青年のもつ純粋さ、誠実さ、そして人生を真剣に健気に生き考えていこうとする瑞々しさが、真正面から見事に描かれていたからである。
この青年の真っ直ぐな精神は、恐らく洋二郎自身のものでもあったのだろう。
北澤武さんのもつ若者らしい純朴な人柄を表現できたということは、画家・洋二郎もまたそうした人格であったということなのだ。
この北澤武像は、洋二郎が長野県飯田のホールで初個展を開いたとき、訪廊した学生の北澤をモデルにして描いたものだという。
北澤はその後、旧制飯田中学の数学教師となった。
※
島村直子さんは、洋二郎の姪にあたる。
伯父洋二郎のクレパス画《ヒロポン中毒の女》を見て育ったと書いているが、この絵は題名の通りに怖いものである。それなのに、いつも飾られていたのは、早死にした画家への親族らしい情愛があったからなのだろう。
洋二郎の死から30年たって、筑摩書房出版の宇佐見英治著『芸術家の眼』という本のカバー図版につかわれていたクレパス画《女の顔》を見たことにより、直子さんの洋二郎の画業への探究が始まった。
宇佐見英治氏を訪ね、伯父の晩年について聞き、氏所有の《自画像》を借りている。
そして、現代画廊で遺作展を開催し、『恋の絵画』という画集まで刊行した。それから30年以上の歳月を伯父・洋二郎という画家のために捧げた。
集まってきた洋二郎の作品を多くの企画展に出品し、10回もの遺作展を開き、短編映画も創り、『眼の光 画家・島村洋二郎』(土曜美術社出版販売)を編集出版し、アメリカ人の養子となって海を渡っていた洋二郎の二男・鉄をNHKテレビ番組「ファミリーヒストリー」の力を借りて探し出している。
そうした営為のすべてを、多くの人々の協力を仰ぎながらも、結局は直子さんひとりの力で成し遂げたのである。
その情熱には素直に頭を下げるしかない。
そうした長年にわたる探究のすべては、『カドミューム・イエローとプルッシャン・ブリュー』(未知谷)に集大成されている。500ページを越える大著である。
島村直子さんの画家・洋二郎への厚い思いは、伯父と姪という血の繫がりがもたらしたものだろうか。いや、そうではあるまい。
直子さんと洋二郎との結びつきは、「苦しみの向こうに何かを見出した一人の『男』」とその何かをしかと受け止めた女性との魂の響き合いからくるものなのだろう。
詩心に恵まれた二人。その間を流れるプルッシャン・ブリューの清冽な河――。
何だか楽しそうな雰囲気で社長が帰ってきた日があった。
その後、事務所を訪れた来客に「…青い目が…」「…行ってきたら?…」と話しているのが聞こえて、つい、「今日どこに行ってたんですか?」と聞いてしまった。
すると「キッド・アイラック・ホールだよ」とのこと。
今記録を見ると、キッド・アイラック・ホールで島村洋二郎展が行われたのは2011年ということだから、時間軸がおかしい。
「前にキッド・アイラック・ホールでやってた画家の展示で」という話だったのだろうか。
ほんの少し前のことがひっくり返ったり置き去りにされたり、本当のことがわからなくなってしまった。
私は美術は完全に門外漢で、しかしその「キッド・アイラック・ホール」が「喜怒哀楽ホール」と書くのではない、もっと洒落た場所だろうということは語感からわかって、「へえ」と言いながらこっそり調べてみると、無言館の窪島誠一郎氏が作ったスナックに併設した文化的空間だったということで、「どこですか?」なんて言わなくて本当によかった、と思った。
その頃ちょうど、水上勉の『馬よ花野に眠るべし』を読んで、あんまり良い作品だったので他の水上作品もいくつか読んでいて、何となく縁を感じて、私も絵を見に行きたいような気がした。
しばらくして、島村直子さんが事務所を訪れた。
背の高い、スッキリした情熱の印象だった。
それで作ることになったのが『カドミューム・イェローとプルッシャン・ブリュー』で、たくさんの資料とともに《青い目の人物画》の実物(複写)が目の前に現れた。
資料として渡された『無限に悲しく、無限に美しく』(コールサック社)を捲り始めて、仕事中ながら時間を忘れた。
一枚一枚の絵を大切に思って、丁寧に作られた本だということがすぐにわかった。
冒頭、第一章のエピグラフに使われている、宇佐見英治氏の言葉。
「しかし島村と深く関わりあい、その絵と人を愛した少数の人たちは死後の抹殺を当然のことと思いながらも、数十年来何か腑に落ちぬものを感じていたに違いない。あんなに苦しみ抜いたのに、あんなに生命を賭して精神の純粋を追い求め、あれほど周囲に迷惑をかけたのに……」
この「あれほど周囲に迷惑をかけたのに……」という一節が、私はとても好きで、今もよく思い出す。
もう一冊の『眼の光』(土曜美術出版社)にあった、豊倉正美氏の「屋根裏のマリヤ」は、あまりに印象的な文章で、いつでも取り出して読めるように、写真に撮って携帯電話に保存したほどだった。
そして「青い目」だ。
『無限に悲しく、無限に美しく』にカラーで掲載されている絵をじっと見ていると、3枚の同じ構図の自画像のうち、1枚だけなんとなく、ふと諦め顔というか、「仕方がないな」と言っているような顔というか、その表情が魅力的で、私もふと口元がゆるんだ。
「そうだよね」と思ったのかもしれない。何に対してか、人生だったのか。
その後、本を作る作業を進めていくのと同時進行で島村洋二郎という人について理解を深めていったのだが、ある絵のキャプションに「ピアニストの安川加寿子氏のピアノの上に飾ってあった」というテキストが入ってきた。
ちょっと待てよ、私はこの名前をものすごくよく知っている、と記憶を探してみると、いつもピアノ教室へ持っていっていたカバンに入っていた3冊のピアノ教本が思い出された。
バイエルが終わったタイミングで先生に「将来何になるつもり?」と聞かれ、深く考えもせずに「学校の先生」と答えたら、「じゃあフランス風がいいんじゃない?」と言われ(何が「じゃあ」だったのか今でもよくわからないが)、私はずっと安川加寿子さんが編集翻訳したピアノ教本を使っていた。
今までその名前に一度も注意を払ったことがなかったほど不真面目な生徒だったというわけだが、ここでこの名前が出てきたことが、まわりまわって私も洋二郎と縁があるような気になってとても嬉しかった。
そして、洋二郎が最後に個展を開いた会場は新宿の「エルテル」だという。
19歳で上京して、右も左もわからなかった頃(1997年頃)、新宿の紀伊國屋書店のことだけは知っていて、その周りをよくウロウロした。
その近くに昔「ウェルテル」だか「ヴェルター」だかという名前の広い名曲喫茶があって、よく一杯の珈琲で時間を過ごした。心細かったあの頃に一人で入れてちょっとゆっくりできる、私が知っていたたった一つの場所だった。
「エルテル」も「ウェルテル」も「ヴェルター」も要するに「若きウェルテルの悩み」なわけだろうから、何かつながりがあるのだろうか、と調べてみても、あまり捗々しい成果は現在に至るまでない。その名曲喫茶が本当にあったかどうかすら、私の検索能力ではパッと出て来なくなってしまった。
しかしあの界隈の猥雑だった感じ、1950年代にはもっともっと人間が人間らしく生きていただろう、あのあたりの店にパステル画を持った洋二郎が通っていたと想像するだけで、同じ何かを生きたような気持ちになる。
もう一つ、私にとって印象的だったのは、直子さんが最初に遺作展を依頼したのが洲之内徹だったということで、自分の書棚に並ぶ背表紙を見るたび読んだ時のことを思い出して、この書棚の中でも最も素晴らしい本のひとつだと思っていた『気まぐれ美術館』にその時のことが描かれていたということだった。
ここに出てくる「島村洋二郎」がまさか自分の人生に関わってくるとは想像もせず、言われるまで全く気づかなかった。
最近、椹木野衣氏の編集でちくま文庫から刊行された『洲之内徹ベスト・エッセイ』の第一巻の最後にもその文章が収録されているから、未読の方は是非読んでいただきたい。
改めて読み返してみると、当時の直子さんの印象も散文的にスケッチされていて、ちょっと冷淡で優しい洲之内氏の魅力も充分の、良い文章だなあと思う。
こうしたあれこれのことが、島村洋二郎の絵を中心にして、私の心の中にゴロゴロと綺麗な石ころのように転がっている。
とはいえ、やはり、直子さんから「個展をやりますよ」と連絡が来ると毎回見にいってしまうのは、あの、ちょっと優しい顔の自画像が見たいからか、周りの人たちを描いた青い目の絵が好きだからか。
直近の個展では「新しい洋二郎が見つかった!」と聞いて仰天した。
新しい発見も世界の襞を覗くようでとても楽しみなのだが、何回でも同じ絵を見に行きたくなるということは自分にとっても初めてのことで、そのチャンスを作ってくださる直子さんには、この何十年もの尽力にも、感謝してもしきれないことだ。
未知谷 編集部
2023.07.22
GALLERY枝香庵Flat(中央区銀座3-3)では、
島村洋二郎展。
会場風景。
展覧会タイトルはー洋二郎没後七十年展ー。
仕事や義務、責任からではなく、
止むに止まれぬ衝動によって、
描かざるを得ぬから描かれる絵画は、
そもそも他人への媚びや自己主張が目的ではないので、
いわゆる、他人にとってのわかりやすい美しさはありません。
自身にとって、
どうしようもないかけがえのなさがあるので、
それを絵画にすることで確かめようとしているようです。
例えば、同じく37歳で亡くなったファン・ゴッホも、
オランダ時代、パリ時代、アルル時代と、
作風は大きく変わってゆきますが、
それは、同一人物の中での美しさの在り方の、
変化、深化であって、
それを捉えるための切実感は共通のようです。
島村洋二郎の人物は、
美しく整った造形ではありませんが、
目から、瞳から、その深い内実が覗けるようです。
色々な事情の下での厄介でしんどい人生なのかもしれませんが、
生きている、その一点において、
美しさが宿るはずです。
絵画は、
得ることのできた自分の人生と、
画家である自身との関わり方。
そんな印象でした。
小中高校を通じて学科で一番得意で好きだったのは音楽で、とびきり苦手でつらかったのは図工、美術だった。
そのくせ美術作品を見るのは好きで今も平均的な市民よりは美術館へ行く頻度が少し高い。
なぜか?自分では描けないがゆえに絵が描ける人を心底から尊敬する気持ちになり素直に絵を受け入れて幸せになれるのだ。
もう一つの秘密は気に入った絵を見ていると絵の向こうからその絵のテーマ音楽が聞こえてくることがあるからなのだ。
島村洋二郎という画家を知ったのは2011年8月、明大前にあった「キッドアイラックホール」で、誰に紹介されたのか忘れてしまったが、「島村洋二郎という人の遺作展がある」と聞いて、それまでに何度か行ったことのあるスペースだったから行ってみたら、そこにいたのが島村直子さん。勿論初対面だった。
40点ほどの作品が並んでいたのだが、その時強烈に感じたのは個性的な肖像画が多いこと。
そしてもうひとつは「自画像って怖いなあ」だった。
他人の肖像画は作品として素直に見ることができるのに自画像は画家さん本人を裸にして胸の中まで見せてしまうんだなあと。
何を考えているのか、どう見られたいのか、が隠しようもなく暴露されているのが自画像なのではないかと初めて気がついたのだった。
この時が島村洋二郎との最初の出会いで、以後こんにちまで直子さんからの案内を受け取って10回ほど遺作展を見てきた。 (つづく)
島村洋二郎は何といっても“青い眼”であろう。
衝撃の出会いは2015年の東新宿のビストロでのことだった。知人の映画監督が洋二郎の映画を完成させ、その完成披露の会に参加した時のことであった。
この時、私はまだ画廊を始める準備中で、美術界とは無縁だった。何の知識もない私であったが、洋二郎の自画像と対面した時の感動は忘れもしない。
その“青い眼差し”は、誰に向けているのか、観る者に憎悪だけでなく、その奥底に潜む他者への愛と自己への憐みを同時に訴えかけている。
この戦慄はなんであろうか。生への執着と去って行った妻への恋慕であろうか。
戦前の彼の絵はこれに反して穏やかである。
その頃の里見勝蔵の師事を思わせる画風も私は好きである。
しかし、その平穏な生活から運命ともいう出会いをしてしまう。
その苦悩の日々をクレパスで描くしかなかったにしろ、指の腹で描くその技法こそが洋二郎の本来の作風を表しているのかもしれない。
それは今につながる宿命であり、快挙だと思いたい。
当方での展示会は二回ある。
一度目は私が画廊を始めてから、初めて企画した会であった。
二度目は「ファミリーヒストリー」(NHK)で取り上げられたアメリカに養子に行った洋二郎の息子、鉄が見つかった記念の展示会として。
どちらも感動的な展示会となった。
また生誕100年の際にも実行委員として参加させていただいた。そのご縁で島村直子さんともお付き合いさせていただいている.
彼女の叔父洋二郎への執心は、DNAがなせる所以であろうか。
彼女の情熱に絆され、洋二郎の青い眼に魅せられて応援させていただいる。
その後、このご縁が洲之内徹氏の現代画廊と私の恩人たちとのつながりに広がっていったのであるが、これも不思議な因縁である。
そして、今も「黒いベールの女」は幣廊の常設展を飾っている。
アートギャラリー884 画廊主
あくまで素人の妄想ですが、ご笑覧ください。
はじめて島村洋二郎の原画に出会ったのは、2017年2月、茶話会 青い光の画家「島村洋二郎」の世界(ハックルベリーブックス(柏)で開催)でのことでした。クレパスで描かれた「猫と少年」です。正対したときは衝撃でした。
「おぉ、これは...妖怪人間ベロではないか?!」
本当に失礼な感想でごめんなさい。
「妖怪人間ベム」は、1968年に放映されたTVアニメです。私は9歳でした。
「妖怪」でもない、「人間」でもない「妖怪人間」が、「ベム」「ベラ」「ベロ」。人間から恐れられ、嫌われ、刑事から追われるなか、やがて、人間とのふれあいの中で「人間になりたい!」という思いが芽生えます。いつか人間になれる日を夢見る彼らは、「悪」と戦い続けて、いつかは人間になれると信じるようになるのです。
ちょっと怖い、でも切ない物語でした。
その記憶の中の「ベロ」(少年)の顔が、「猫と少年」の少年と重なったのです。
「猫と少年」の強烈な「眼の玉」。他の洋二郎の作品「自画像」をみたときも、そのとび出たような「眼の玉」が強烈な光を発散しているのです。
洋二郎の手帳にある記述、「無限に哀しく澄み切ってゆく、冷たく燃え広がってゆく青い光」。私の悪い癖は、後から無理に理由付けすることです。
しかし、アニメの「ベロ」を見返してみると、描写はアニメらしいシンプルさはあるものの、これだけで洋二郎を連想したのだろうか、とも思いました。洋二郎の「眼の玉」と比べるべくもない、ただの大きな眼にすぎません。
そう、他にもあったのです。髪の色が「青」だったのです。洋二郎の少年は髪の色が青というわけではありませんが、同じ「青」というだけで、ごっちゃにしたのです。それでも矛盾があります。
そもそも、私が見たアニメの「ベロ」は1968年だったので、モノクロでしか見ていないはずです。家にカラーテレビはありませんでしたから。後で再放送かなにかを見て覚えていたのでしょう。いやはや。
ちなみに、我が家にカラーテレビが来たのは1970年で、初めてカラー放送で見たドラマが「樅ノ木は残った」でした。主人公、原田甲斐を演じる平幹二朗の月代が妙に「青かった」ことを覚えています。(余談すぎてごめんなさい)
それにしても、洋二郎の特徴的な色使い、プルッシャン・ブリューには、いつも魅了されます。
深くて、神秘的で、ときに哀切さを放射する「青」。
最晩年の作品で際立つ「青」、「蒼い瞳」の前では、なぜかいつも身動きができなくなります。
葛飾北斎の「北斎ブルー」も、輸入された人工顔料が使われており、それをプルッシャン・ブリューと呼ぶのですね。
先日、NHKドラマ「広重ぶるう」で知りました。そして、通称、こう呼ばれていたそうです。
「ベロ藍」
ほら、つながったでしょ!?
命日花なら
野の花
陽の当たるものより
道端に生きるものが
手向けるに相応しい
吹く風は変わらないが
色彩をくれた者達
一色、一色、どこに
七月の影法師
御影に頭部を
垂れよう
photo by Midori
自画像の中の洋二郎さんと目を合わせていると、聞こえてくる音楽があります。ベートーベンのピアノソナタ8番悲愴の第2楽章、表題にも関わらず、私にとって弾いていると、悲しい曲というよりも、不思議と最後には、人生を生きる力すら湧いてくるような気持ちになる曲です。
2022年、上野の素敵な画廊で開かれた展覧会に訪れた折、洋二郎さんの自画像をちょうど秋の午後の日差しが包んでいました。
いつに増して絵が生き生きと見え、「その後、どう?」、再会した洋二郎さんの目が、私にそう問うているような気がしました。
「はい、夢がかなったわけではないけれど、なんとかやっています」「そう」、洋二郎さんのまなざしは、どんな人も受け入れてくれる、たとえ人生に敗れ去っても、うまくいかなくても、どんな時も包み込んでくれる気がするのです。
よく見ると、口もとには微かな笑みが見えるような気がします。
この絵が描かれたのは1953年、宝石のようなアクアマリン色の瞳が印象的な「猫と少年」などの作品も生み出し、晩年と呼ぶにはあまりに若く、その年7月に37歳でこの世を去りました。
自画像などのこの頃の絵を見ると、心の中を吹きすさんだ嵐が少しだけ凪いでくれたのではと想像し、またそうあってほしいと願い、少し救いを感じるのです。
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